第五話　失われたもの

　「フィアス・クレイハウント様、我々人類に時間と空間を制御するようなことが本当に可能なのですか？」
　「ふむ、今のお主たちでは想像すらできんかもしれぬが、真の魔法の力とはそれほど強大なものなのじゃ…。現在、お主たちが使えるようなレベルの魔法は正常な状態の時間と空間に対して作用するものじゃが…その土台となっている時間と空間を制御するということは、その上で発動している魔法そのものを無効化することすら可能なのじゃ。言い換えれば究極の魔法と言ってもいいのかもしれぬ。…むろん並の魔道士に扱える代物ではないがな。」

　神官シーナ・フィーナスの質問にそう答えた大魔法使いフィアス・クレイハウントはさらに話を続けた。

「その強大な力ゆえに魔法を扱う者は常に細心の注意を払わねばならぬ。もしそれを怠るようなことがあれば…。」

　そう言うとフィアスは静かに目を閉じた。フィアスの意識は膨大な記憶の中から１００年前のあの出来事を探し出そうとしていた。

　サートゥリア暦１５８年のある日…。その日は朝から季節はずれの雨が降り続いていた。いつも通り研究室にいたフィアス・クレイハウントは窓からその雨をながめつつ、何やら言い知れぬ不安感に襲われていた。
　今、この研究室にはフィアス一人しかいなかった。先日まで夜を徹しての調査が続いていたため、フィアスは今日を研究室全体の休暇日としたのであった。結果的にこの判断が正しかったのか後日フィアスは何度も悩んだが、彼は未だにその結論を出せずにいる…。

　「おい、フィアス、こんなところで何をしているんだ。今日は一日休暇じゃなかったのか？」
　「ん…。あぁ、フレデリックか。いや、大したことではないんだがな、何もしていないと妙に不安になってな。」
　「ははは、自分で休暇日にしておいて結局はそうなるのか。」
　「言うなよ、フレデリック。」
　「お前は根っからの研究者だな。」

　そう言って笑っている男の名はフレデリック・グリード…年齢はフィアスより１０歳ほど上で、身長もフィアスのそれを上回っていた。頭の後ろで束ねている長く伸ばした漆黒の髪が印象的な男性で腰には剣を携えている。彼はもう何年にも渡ってフィアスのガードを務めており、フィアスにとってはかけがえのない親友の一人でもあった。

　ズンッ

　二人が強い揺れを感じたのはまさにその時であった。フレデリックは持ち前の身体能力で耐えることができたが、フィアスは目の前にあるテーブルに手をついてなければ転倒していたと思われるほどの強い揺れであった。

　「なっ、何だ、地震かっ！」
　「分からん、だがフィアス、この揺れでは他の研究室も危ないぞ。」
　「そ、そうだっ、ル・アークはっ？」

　そう叫ぶとフィアスは研究室を飛びだしていった。フレデリックも慌ててフィアスの後を追う。
　自分の研究室を飛び出したフィアスの耳に飛びこんできたのは無数の悲鳴であった。そしてフィアスが悲鳴が聞こえた方向を向いた時、その遥か前方からこれまで見たことがないような生物がこちらに向かってくるのが見えた。
　黒い蜥蜴のような皮膚を持ち、四本の足で地面を駆ける。しかもその背中には大きな翼を持ち、目は燃えるような赤色であった。そしてこの大陸にはそのような特徴を持った生物は存在していない。
　フィアスは急いで攻撃魔法の詠唱を始めたが、その奇怪な生物の移動速度は想像以上に速く、精神集中に入るまでに彼の直前まで迫ってきていた。
　彼は身の危険を感じて精神集中に入るのを中断し、あわてて回避行動に入った。ただ、剣士などと異なり運動能力は並の人間と変わらない魔道士である。回避できないのは誰の目にも明らかであった。フィアスはその生物に背を向けてしゃがみ込み、やがて襲ってくるであろう激痛に備えた。
　だがいつまでたっても予想した激痛は襲ってこない。恐る恐る振り返ったフィアスが見たものはその生物を剣でなぎ払っていたフレデリックの姿であった。

　「ふっ、いかに強力な力を持った魔道士でも、スピード勝負になればただの人間と変わらんな。」
　「フレデリック！…ありがとう、助かったよ。」
　「それにしてもこの生物は一体…。」
　「分からない…何かとんでもないことが起こっているような気がするんだ。」

　フィアスとフレデリックはひとまずル・アークの研究室へと向かうことにした。その途中、何度かその生物に遭遇し、いずれもフレデリックが倒すことに成功したが、フィアスはル・アークの研究室が近づくにつれて、その数が次第に増えていることに気づいていた。

　「くそっ、フィアス、これではきりがないぞ。」
　「フレデリック、俺が魔法で一掃する。ガードを頼む。」
　「了解だ。だが手早くしてくれ、この状態では俺もそう長くはもたん。」

　フィアスは即座に呪文の詠唱に入った。多くの敵を一度に攻撃できるような魔法は呪文の詠唱に時間がかかる。しかし、今の状況ではそのような長い呪文を唱えている余裕はなかった。
　そう考えた時、フィアスの戦術は決まった。比較的短い詠唱時間で発動できる魔法…物理防御の魔法を発動させたのだ。これによってフレデリックに向かっていた生物たちは見えない壁にぶつかって地面に転がった。何匹かは障壁の展開前にこちらに飛び込んでいたが、その程度の数ならフレデリック一人でも十分に対処することができた。
　フィアスはさらに続けて呪文の詠唱に入る。この詠唱時間は先ほどより明らかに長い…これは間違いなく攻撃魔法であった。フレデリックはしばらく防戦を続けた後、魔法発動のタイミングを見計らってわずかに後ろへと下がった。その直後にフィアスの魔法が発動。フィアスの前方が眩い光に包まれ、廊下にいた数十匹の生物はその光の中へと消えていった。
　並外れた精神集中が必要なため、普通の魔道士では難しい連続した呪文の詠唱。それをいとも簡単にやってのけるフィアス・クレイハウント…そこに未来の大魔法使いの片鱗を見て取ることができた。

　「さすがだな、フィアス…。」
　「フレデリック、大丈夫か？」
　「あぁ、おかげさまでな。さぁ、行くぞ。」

　フィアスたちは再びル・アークの研究室へ向かって走り出す。彼らはル・アークの研究室まであと少しのところまで迫っていたのだ。
　そしてル・アークの研究室でフィアスたちが見たもの…それは無数の謎の生物とそれらが湧き出してくる不思議な光の球であった。ル・アークの姿はその光球の向こう、研究室の隅で彼の部下であるロザ・ルシアと共に見つけることができた。

　「ル・アーク、これは一体！」
　「フィアスか、すまん、とんでもないことをやってしまったようだ！」
　「とんでもないこと？」
　「ゲートだ。やはり俺たちのいる世界とは別の世界が存在しているというのは正しかったんだが、ゲートでつないだ先がまずかったらしい。」
　「じゃあ、この生物は…。」
　「そうだ魔物だ。俺たちの世界にはいない別の世界の生物だ。しかも恐ろしく凶暴で、すでに俺の研究室の生き残りは俺とロザ・ルシアの二人だけだ。」

　ル・アークが言うように、研究室の床を覆い尽くしつつある魔物の隙間に何人か見知った姿を認めることができた。ただ、それはすでに生命ではなく単なる肉の塊となり果てていたが…。

　「ル・アーク、俺が魔法でこの魔物を一掃する。その間にそのゲートを何とかしてくれ！」
　「すまんっ、フィアス。頼んだぞ。」

　フィアスは呪文の詠唱を始める。魔物たちはそれに気づきフィアスに向かってきたが、研究室の出口が狭いために一度に向かって来れる数はそれほど多くなく、フレデリック一人でも十分に対処可能であった。
　それもあってフィアスは先ほどより強力な魔法を放つつもりでいた。詠唱時間が先ほどの倍近く過ぎた頃だっただろうか、フィアスの目が開き魔法が発動された。
　フレデリックは長年の経験でその瞬間を察知し、魔法の影響範囲から飛びのいた。直後、今までフレデリックがいた場所が眩い光に包まれた。その瞬間にそこへ飛び込んできた魔物は一瞬にして蒸発する。
　強力な効果を持つ攻撃魔法をガードの至近距離に放つ、長年パートナーを組んでやってきた彼らだからこそできる芸当であった。

　「やったか！」
　「…いや、まだだっ」

　フレデリックの歓喜の声はフィアスの一言によって一瞬にして止まった。たった今フィアスが放った魔法はフレデリックの知る限りかなり強力ななものであったはずである。その魔法ですらこの魔物すべてを完全に消し去ることはできないのだ。やはり発生源であるゲートを閉じるしか手はなさそうであった。
　その間にもル・アークはゲートを閉じるための魔法を組み立てていた。最高ランクの魔法ともなるとそれはすでに単一のものではなく、複数の魔法を複雑に組み合わせることによって成立させる必要があったのだ。
　ル・アークは繰り返し放たれるフィアスの攻撃魔法とそれを受けてもまだ攻撃を止めない魔物たちを横目に次々にゲートを閉じるための魔法を重ねていく。フィアスの攻撃魔法はストレイク王国の魔道士の中でもトップクラスの力がある。それですら倒せない生命体が目の前にいる。

　「フィアスですら簡単には倒せない生命体…だが、それほど知能があるわけではない、か。」

　ル・アークはさらに魔法を重ね、ついにゲートを封じることに成功した。だがそれと同時に強力なゲートを封じるために周囲に展開していた結界を構成する防御魔法のいくつかが崩壊。ゲートを封じるための巨大なエネルギーの一部が結界の外部へ漏れ出し、その瞬間ル・アークの研究室は閃光に包まれた。

　「その時の出来事でル・アークは変わってしまった。偶然にも自分が開いてしまった異世界へのゲート…そしてその向こうにいる人類を超える能力を持った魔物たち…。それらを目の当たりにした時、いつしかそれを自分で制御してみたいと考えるようになったのじゃ。」

　フィアスはその時のことを本当に悲しんでいるような表情で語った。ル・アークはこの直後に研究所から部下であったロザ・ルシアと共に姿を消した。
　そして彼が再びサートゥリア大陸に姿を見せた時にはすでに多くの魔物を従える魔界の王となっていた。これを封じるためにストレイク王国は国内にいたすべての魔道士を動員し、大陸史上まれに見る大規模な魔法戦闘が展開された。その力は山を砕き、川を消し去り、大陸の地形を激しく変えてしまうようなものであった。

　「ル・アークの力はこのわしを遥かに超えていたよ…わしは最後まで時間の制御を完全に行なうことはできなかったのじゃが、やつはかなりのレベルで空間制御、特にゲートの制御を可能にしていた…。」

　フィアスはそこまで言うと小さく呼吸を整え、さらに次のように続けた。それは彼にとってももっとも語りたくないことであったのかもしれない。

　「そして、その戦いの中でわしは…エイドリアン、お主の祖父であるフレデリックを失ったのじゃ…。あれは完全にわしのミスじゃった…突如、目の前に現れた巨大な魔物を倒そうと強力な魔法の詠唱に入ってしまったのじゃ。すぐ近くまで迫っていた無数の魔物の存在に気づかず…。」

　そう語るフィアスの目から一筋の涙がこぼれた…いくら悔いても悔やみきれない、それは彼にとって生涯最大のミスであったと言えよう。

　「わしが魔法を発動し巨大な魔物を倒した末にそこで見たものは、全身に深い傷を負ったフレデリックの姿と周囲に散乱していた無数の魔物の骸じゃった…。フレデリックはわしが魔法を発動するため長時間に渡る呪文の詠唱を行なっている間、ついに一匹の魔物もわしには近づけさせなかったのじゃ…。」
　「わしらはこれをきっかけに形勢を逆転し、最終的には魔物たちを封じ込めることに成功した…残念ながら首謀者であるル・アークは取り逃がしたが、奴はその時の傷の影響でそれ以後数十年間に渡って大陸に姿を見せることはなかった。」
　「じゃが…、この結果を得るために我々が失ったものはあまりにも大き過ぎた。この戦禍によって当時唯一の国家であったストレイク王国は崩壊し、大陸は再び混沌とした時代へと逆戻りした。その後、大陸に再び秩序を取り戻すためには五十年以上の歳月が必要じゃったよ。また王国最高の魔道士であったル・アークを失ったことで、それまで順調に進んでいた魔法の調査は停滞を余儀なくされた。これ以後、魔法の技術が衰退してきているのはお主たちも知っての通りじゃ…。」

　フィアスはここで静かに深呼吸をした。これに続く一言を言うためにそれなりの覚悟が必要だったのだ。

　「そして、わしが知る限り最高のガードであり、またわしの親友でもあったお主の祖父フレデリック・グリード…彼はそのまま息を引き取ったのじゃ…。わしらがいかに優れた能力を持っていたとしても、一度失った命を蘇らせることまではできぬ。わしはその時、自分の無能さを心から悔いたよ…。」

　フィアスはそう言うと、それまでずっと閉じていた目を開いた。

　「他人から見れば、わしが今やろうとしているのはル・アークに対する個人的な復讐なのかもしれない。そして仮にそう思われたとしてもわしは構わぬ。ル・アークの手によってあの悲しい世界が再現されることだけは何としても避けねばならんのじゃ…。」

　そしてフィアスはエイドリアンを見つめて次のように続けた。

　「エイドリアン…これからお主が歩む道は祖父のそれと同じになるやもしれぬ。じゃが、これだけは約束してくれ…必ず生きてわしのところへ帰ってきて欲しい。フレデリックだけでなく、孫のお主までル・アークとの戦いで失うとなれば、わしはフレデリックに何と詫びれば…。」

　言葉を詰まらせるフィアスを見ながら、すでにエイドリアンの気持ちは決まっていた。この戦いは確かにフィアスの私戦かもしれない…だが、たった今それはエイドリアンの私戦ともなったのである。
　そしてそれはエイドリアン・グリード、カルティス・ムーンを始めとする六人の運命が同じ方向に向かって動き出した瞬間でもあった。